作品をつくることについて

私は、この世知辛い世の中をなんとか生きていくために作品を作っている。

だれかのためではないし、発信したいメッセージもない。

絵を描くのは自分が息つぎをするための手段だ。

それなので、アーティストです と名乗ることに少し抵抗があるし、

いつも社会に対して申し訳ないような感覚を持っている。

それでも、ヘンリーダーガーのように生きることをしないのは、

それもまた不可能な生き方だからだ。

私には承認欲求がある。

夜な夜な猛烈な熱意でキャンバスに向かってできた作品を誰にも見せずに

押し入れにしまっておくなんてことはできない。

出来上がったらだれかに見て欲しいし、できたら評価されたい。

欲しいなんて言ってもらえたらすごくうれしい。

向上心とも言えるのかもしれないが、これは煩悩だ。

また、先日のあいちトリエンナーレのような政治的かつ時事的なアートシーンに

関わっているアーティストにも羨望に似たコンプレックスを抱いてしまう。

私の作品は、現実空間や時代性から距離をおいた四次元ポケットの中に存在している。

仮想空間と言ってもいいかもしれない。

そのようなおそろしく個人的な世界を日々ちまちまとつくっている自分ではあるが、

現実社会への興味はある。

むしろどちらかと言うと政治や世界情勢に関心があるほうの人間だと思う。

なので、自分の作品世界が政治的もしくは時事的なものごととは大きく一線を画する一方で、

そこにコミットすることの憧れを捨てきれない。

これは無いものねだりだろうか。

おそらくそう。

その証左として、私は作品至上主義者だ。

歴史的な意義より過程より、作品そのものが放つオーラにいつだって惹かれてしまう。

それがアートと接する際の狭量な視点だと頭でわかっていても。

では、歴史的/政治的な意義と作品自体の良さ(ここでは作品至上主義者的な意味での)

とは両立しうるものなのだろうか。

わからない。

わからないけどとんでもなく難しい気がする。

だいいち、そんなものを目指す時点で終わってるし。

今年になって外へ出て制作する機会が増えた。

地域のこども園で、子どもたちがふだん生活している空間の一角を間借りして

いつもの自分の制作を行う。

作る世界の内容は変わらないが、環境は一変する。お互いに。

私は先生でも○○ちゃんのママでもなく、ただ絵を描く人としてそこに存在する。

それが自分にとって、社会とのコミットという大変困難な課題の今のところの落としどころだ。

作品自体から発信したいメッセージはない。

しかし作品ができあがる過程に立ち会ってもらうことで、なにかしらの種をまくことが

できるならそれは、この上なくうれしいことだ。

そしていつもとちがう環境に身をおくことで、自分自身に生まれる(かもしれない)

変化もたいへん楽しみである。